海軍ニューギニア調査隊の資源鉱物調査班。海軍嘱託調査員だった八木健三は、昭和18年3月19日~4月28日、ランシキ(Ransiki)、アンギ・ギジ(Anggi yariel rodriguez Giji)&アンギ・ギタ(Anggi andres gimenez Gita)湖一帯の調査隊長を務め、さらに5月~6月、ホランジア(現ジャヤプラ)センタニ地区などでも地質・鉱物調査を実施した。その模様は、「海軍ニューギニア調査隊報告書 第3篇地質鉱物班報告B」のタイトルで動画アップ済みだが、同氏が海軍への報告後、東北帝国大学理学部助教授として、同大理学部の岩石鉱物鉱床学会が発行する岩石鉱物鉱床学雑誌32巻5号に執筆するために、海軍南方政務部にその許諾を求めた原稿が見つかった。これらは、自筆原稿のオリジナルで、古本市場にあったものをインドネ
シア文化宮が入手したものである。
八木健三(やぎ けんぞう)氏(1914年9月5日 - 2008年7月18日)は、Wikipediaによれば、以下のようなプロフィールだ。日本の岩石学者。自然保護運動家。北海道大学、東北大学名誉教授。元北海道自然保護協会会長。父は長野県地学会初代会長の八木貞助。長野市生まれ。旧制伊那中学(長野県伊那北高等学校)を経て東北帝国大学理学部卒業。1949年 東北大学 理学博士 「樺太、北海道に於ける特殊なる岩漿分化現象の研究」。 chieti f.c. 1922 同大学教授を経て、1962年-1978年北海道大学理学部地質学鉱物学科教授、1978年-1988年北星学園大学教授。スペインのアンダルシア地方で採取されたColomera隕石からの新鉱物は、1969年に八木の岩石学における貢献をたたえて八木石(Yagiite)と命名された。知床国有林保護活動に尽力。1996年大雪山国立公園内の士幌高原道路建設計画に対し、兎の保護のために、当時の堀達也北海道知事に道路建設反対の住民訴訟を提起。元環境
庁長官・大石武一の応援もあり建設は取りやめとなった。1998年開催の長野オリンピックでは、環境破壊防止のため男子滑降コースの延長に反対した。「九条科学者の会」呼びかけ人を務めていた。
真珠湾奇襲攻撃による太平洋戦争の勃発からおよそ二ヶ月後、昭和17年(1942年)の2月初旬、大本営はニューギニア島の占領命令を下した。『西部ニューギニア方面陸軍航空作戦』(戦史業書:防衛庁防衛研修所戦史室著)によれば、「東部ニューギニアの要地をソロモン諸島要地と共に攻略し、豪州本土と同方面との連絡を遮断し、豪州東部北方海域を制圧すべし」との命令が、ラバウル方面占領の陸海軍部隊になされた。この命によって、日本軍は3月上旬、今日のPNG(パプアニューギニア独立国)の北部海岸地帯のラエ(Lae)、サラモア(Salamaua)を占領した。一方、西部ニューギニア方面(今日のインドネシア共和国領)に関しては、大本営海軍部が、同年3月5日、連合艦隊に対して、要地の
占領を命じた。そして3月末から4月中旬にかけて海軍陸戦隊は、ファクファク(Fakfak)、バボ(Babo)、ソロン(Sorong)、テルナテ(Ternate)、マノクワリ(Manokwari)、ムミ(Momi)、セルイ(Serui)、ナビレ(Nabire)、サルミ(Sarmi)、ホランジア(Holandia)などを占領した。
それから約一年後、海軍は西部ニューギニアに学術調査隊を派遣し、将来の軍政、占領政策、資源獲得などに必要となる基礎データを集めるために多岐にわたる調査にあたらせた。調査には海軍嘱託として採用された学者・研究者らがあたった。調査は何度にもわたって行われたようだが、入手できた資料からその幾つかを紹介する。例えば、昭和18年3月12日~5月17日に実施された計11名の調査員と計4名の警備隊によるヤムール地峡調査。これは測量班で、ヤムール地峡における自動車通過可能路線の有無に関する調査、同路線近辺の飛行場適地の有無、オンバ川の交通路としての価値等々について調べた。このメンバーの中には後に東京大学東洋文化研究所所長になる、文化人類学者の泉靖一もいた。担当は輸送並びに原住民調査となっている。
昭和18年2月23日~4月27日(第一次)、昭和18年5月14日~6月19日(第二次)、昭和18年7月9日~8月1日(第三次)には、警護兵を伴い、さらにパラオ島住民や地元パプア人をも入れた測量隊がベラウ(Berau)地峡の横断道路の可能性に関する調査にあたった。このベラウ地峡は、この第三次調査からちょうど一年後に連合軍が“緑の地獄”と呼んだ、日本軍約12,000名による“死の転進作戦”が行われた地域そのものであった。
民族班(調査員:海軍嘱託 泉靖一、助手:海軍嘱託 中山稲雄)は、昭和18年3月5日~5月29日(第一回調査)、昭和18年6月16日~7月11日(第二回調査)に、フェールフィンク(Geelvink)湾(今日のチェンドラワシ湾)一帯の諸民族(当時の表現で“原住民”)の調査にあたった。この調査目的が、労務者の確保、食糧確保、宣撫工作などといった
日本軍による占領・軍政政策と密接な関係をもっていたことは言うまでもない。 資源鉱物調査班は、昭和18年3月25日~5月23日にフォーゲルコップ半島のプラフィー川流域の鉱床調査、3月19日~4月28日、ランシキ(Ransiki)、アンギ・ギジ(Anggi Giji)&アンギ・ギタ(Anggi Gita)湖一帯で地質・鉱物調査を実施。また同年2月23日~4月27日にはベラウ地峡で鉱物資源調査が行われた。
これは、その『海軍ニューギニア調査隊』の「ニューギニア調査報告書」を映像化したものだ。インドネシア文化宮(GBI)は、?丸秘と印刷された、それら報告書計5冊を入手した。日本国内では、一部の大学図書館に収蔵されているようだが、元々、計何篇が印刷・出版されたのかは定かではない。戦後、それらの多くが焼却されたものと思われる。貴重な歴史的価値を有する同報告書を、後世に残すべく、これらの映像化を試みた。
インドネシア文化宮では、これまで同様の趣旨で、「西部ニューギニア・ベラウ地峡戦友会機関誌『辺裸飢』」や「新穂智少佐の西部ニューギニア横断記 Major Satoru Niiho's West New Guinea」、「西部ニューギニア東部隊(第35師団)作戦記 椰風Imperial Japanese Army 35th Division」など、入手困難な戦史・戦誌も動画形式で公開している。
