日刊・生放送2165回 田中正造の回心のきっかけは笹尾鉄三郎?・ネットに反映されない貴重な情報が埋もれてる/十字架を負うこと/クリスチャン新聞は宝の山 2026年05月06日(水)18時 Lafc Vs St. Louis (pMS84gra9A)

Tag: #Lafc Vs St. Louis, #byron buxton, #ostapenko, #paddy pimblett

serie b 🎙️(0:01)ちょうど6時開始とマイク装着

外部マイクの影は映っているが、まだマイクは未装着。

放送を始めてから外部マイクをつける流れになる。

「マイク」と言えば「バラが咲いた」のマイク真木へ連想。

「バーラガサイタ、バーラガサイタ」「カナバラガー」と歌いながら、マイク真木の話へ少し脱線。

🖥️(0:36)パソコン起動と季節の気候

声の調子や放送環境のため、パソコンを立ち上げる。

パスワード入力の画面を見ながら「ようこそ」と反応。

朝や夜は寒い。

しかし昼は暑い。

午前中に出かける時はセーターを着て行くが、帰る頃には暑い。

季節の変わり目の体感の難しさ。

🎸(1:19)NTPからNSPへ連想

NTPの話をしようとして、NSPを思い出す。

NSPは昔のフォークグループ。「納豆、空豆、ピーナッツ」と冗談めかして解釈。

NSPがわかる人は、自分と同世代だろう。

NSPと原田伸郎の関係が気になり、GPTに質問。

NSPのメンバーだったわけではない。

ただし1970〜80年代のフォーク界・ラジオ界で接点や共演、紹介の可能性はある。

原田伸郎がラジオでNSPの曲を好んでかけていたという証言も。

📰(3:34)ネットに残らない記録とクリスチャン新聞

ブログや個人の回想には載っていても、ネット検索では出にくい情報が多い。

特にクリスチャン新聞に載ったような記事は、ネット上にはほとんど出てこない。

以前「タイムスリップ」というコーナーがあったが、今は沙汰止みになっている。

1960-90年代の日本プロテスタント界の動きは、週刊クリスチャン新聞に多く記録されている。

「こんなことがあった」「こんな人がいた」という記録が驚くほど載っている。

近代日本キリスト教史を掘るなら、クリスチャン新聞は資料の宝庫。

⛏️(4:24)足尾鉱毒事件と田中正造

足尾鉱毒事件の話へ移る。

田中正造はクリスチャンとして知られている。

自分がNOTEに書いた「クリ時旅」の記事を検索。

「田中正造の回心」という記事が出てくる。

📜(5:50)「聞き書き 笹尾鉄三郎小伝」

元記事は「聞き書き 笹尾鉄三郎小伝」。

笹尾本人が書いたものではなく、笹尾をよく知る人物が書いた評伝。

週刊新聞で読者が楽しめる分量の連載。

その第9回に田中正造が登場。

本来は笹尾鉄三郎の伝記連載だが、その中に歴史的に重要な証言が出てくる。

こういう「思わぬ人物が思わぬところに顔を出す」資料が、クリスチャン新聞には多い。

🔍(7:02)クリスチャン新聞はお宝の山

1976年の記事に、田中正造の回心についての記述がある。

自分はこれをNOTEにリライトして紹介した。

近現代史の真実を掘り起こしたい人は、クリスチャン新聞を読むべきだと強調。

現在のクリスチャン新聞購読者は、PDFで過去記事も読めると説明。

そこには、ネット検索では出てこない貴重な日本キリスト教史の資料が眠っている。

🧑‍🏫(8:10)高田松太郎牧師の証言

該当記事を書いたのは高田松太郎牧師。

高田牧師は、自分が栃木県宇都宮で伝道していた時の話を書く。

宇都宮で笹尾鉄三郎を招いて伝道集会。

その集会に田中正造が出席していた。

田中正造はその晩の話に深く感激した。

そして間もなくクリスチャンになった、と高田牧師は記している。

🏛️(9:54)宇都宮での伝道集会

宇都宮の教会で、笹尾鉄三郎に説教してもらった。

その場に田中正造が出席していた。

田中正造がふらっと来たのか、事前に誘われて来たのかは不明。

すでに笹尾鉄三郎との接点があった可能性もある。

ただ高田牧師の体験としては、自分の教会の集会に田中正造が来たということ。

✝️(11:40)田中正造が語った十字架理解

高田牧師の回想によれば、田中正造は笹尾の話に「痛く感激」した。

後日、田中正造はこう語ったという。

「公害に苦しむ人のために十字架を負って戦っている自分にとって、キリストの十字架の意味がよくわかった」

足尾鉱毒事件で苦しむ人々のために戦う自分。

その苦しみと、キリストの十字架が重なった。

田中正造にとって、十字架は抽象教理ではなく、自分の生涯と響き合うものだった。

📖(13:41)「己が十字架を負いて我に従え」

田中正造は、クリスチャンになる前から聖書やキリスト教に触れていた可能性がある。

明治・大正期には、クリスチャンでなくても聖書の有名な言葉を知っている人がいた。

「人もし我に従い来たらんと思わば、己を捨て、己が十字架を負いて我に従え」

文語訳聖書の言葉はリズムがよく、暗記しやすい。

現代語で言えば、「私に従いたいなら、自分の十字架を負って来なさい」。

この言葉が田中正造の生き方に深く響いたのではないか、と解釈する。

🙏(14:52)イエスの十字架と人それぞれの十字架

イエス・キリストの十字架は特別な十字架。

罪のないキリストが全人類の罪のために負った十字架。

それは誰にも代われない、唯一の救いの十字架。

しかしイエスは、弟子たちにも「自分の十字架を負って従え」と言った。

人間はそれぞれ、大小さまざまな十字架を負っている。

家族を支えること。

病を抱えること。

精神的な苦しみを抱えること。

社会の不正義と戦うこと。

それらをどの方向に負うのかが大切。

⚖️(16:26)十字架の負い方

十字架を負うといっても、負い方はいろいろある。

恨みやルサンチマンに向かう負い方もある。

自分も周囲も破壊する方向に進むこともある。

しかしイエスに従う者として負う十字架には意味がある。

田中正造の場合、鉱毒に苦しむ人々のために戦うことが、自分の十字架だった。

その戦いがキリストの十字架と重なって見えたのではないか。

🗞️(17:35)編集者としての見出し感覚

高田松太郎牧師の連載の主題は、本来は笹尾鉄三郎。

その第9回の中心も、むしろ中田重治との関係だった。

しかしクリスチャン新聞編集部は、そこに出てきた田中正造の記述を見逃さなかった。

見出しに「田中正造の回心」とつけた。

これこそ新聞編集者の仕事だと評価。

もし「中田重治との出会い」のような見出しにしていたら、資料価値を見落としていたことになる。

重要な一節を発見して見出し化するのが編集者の役割。

🖼️(18:09)紙面の紹介

実際の紙面を示しながら説明。

写真は笹尾鉄三郎愛用の聖書。

田中正造愛用の聖書ではない。

しかし見出しとしては「田中正造の回心」。

記事本文では、笹尾鉄三郎と中田重治の出会いも語られる。

その後半に田中正造の話が出てくる。

🔥(19:47)笹尾鉄三郎と中田重治

笹尾鉄三郎と中田重治の出会いは1889年。

バックストンの流れも絡む。

中田重治が笹尾に近づき、「君が笹尾君だね」と声をかけたようなエピソードが紹介される。

中田重治は気性が激しい人物として描かれる。

一方、笹尾鉄三郎は人を柔らかく受け止める人物。

この二人の対比も記事の中で語られている。

🏟️(20:32)読売新聞ホールでの集会

高田松太郎は、宇都宮で伝道していた時、笹尾先生を招く。

読売新聞のホールで伝道集会を開いた。

そこに足尾鉱毒事件で戦っていた田中正造が来た。

田中正造はその晩の説教に感激した。

その後、間もなくクリスチャンになった。

この証言は、少なくとも「1976年のクリスチャン新聞記事にそう書かれている」という点では確実。

ただし高田牧師の証言自体がどこまで正確かは、さらに検証の余地があると慎重に述べる。

🧾(21:52)資料としての重み

高田松太郎の記述は非常に重要。

しかし本文では田中正造の話は数行しかない。

もっと詳しく書いてほしかったと惜しむ。

自分が編集者なら、次回は予定を変えてでも「田中正造についてもう少し書いてください」と依頼しただろうと語る。

それほど資料価値がある。

ただし当時の連載では、あくまで笹尾鉄三郎の生涯が主題だったため、田中正造は一つのエピソードとして扱われた。

🧭(23:49)田中正造と笹尾鉄三郎の人脈の違い

田中正造の系譜と笹尾鉄三郎の系譜は、本来かなり違う。

田中正造は社会問題、公害問題、弱者のために戦う人物。

笹尾鉄三郎はホーリネス・きよめ派の伝道者。

「十字架にかかりたる救い主を見よ」といった、伝道熱心な福音派・きよめ派の流れ。

街頭伝道や天幕伝道を重んじる系統。

しかし明治期には、現在よりもそうした異なる人脈同士が交わる余地があったのではないかと見る。

⛺(24:41)天幕伝道と母方の祖父

自分の母方の祖父も、天幕伝道を好む熱心なきよめ派のクリスチャンだった。

友人たちと伝道グループのようなものを作っていた。

自転車の後ろに天幕を積んで伝道に出かけた。

小学校3年生の頃に祖父は亡くなったため、本人から直接詳しく聞いたわけではない。

しかし後にキリスト者となってから、そうした家族史の意味がわかるようになった。

✒️(26:09)井上筆代と矢内原忠夫

母方の旧姓は井上。

「筆代」という大伯母の話へつながる。

矢内原忠夫と関係があった。

柳原忠夫は東京帝国大学を追われ、山中湖の別荘にこもって文章を書いた。

『嘉信 良き知らせ』のような文章をガリ版で発行した。

そのガリ版を切った一人が井上筆代だった可能性がある。

もし紙面を見れば、筆跡や版文字で判定できるかもしれない🤣と語る。

筆子は非常に個性的な字だった。

「代筆」とひっくり返せる名前だと冗談めかしていたという思い出も紹介。

🌉(27:51)人脈を越える明治・大正期のキリスト教

無教会系、きよめ派、社会派など、現代なら人脈が違って見える人々が、当時はもっと柔らかく交わっていたように思える。

笹尾鉄三郎の説教を田中正造が聞きに行く。

それが自然に起こり得た。

1990年代頃の日本のプロテスタント界は、教派や人脈がもっと硬く分かれていた印象。

「我は我が道を行く」という硬さ、時には攻撃性さえあった。

それに比べると、明治・大正の方が交差点が多かったのではないかと感じる。

🧩(29:19)今日の結論

1976年のクリスチャン新聞連載、田中正造が笹尾鉄三郎の説教を聞いてクリスチャンに。その証言の史実性はさらに検証が必要だが、少なくとも「そういう記述がクリスチャン新聞に存在する」ことは重要。

田中正造の回心、足尾鉱毒事件、十字架理解、明治期キリスト教人脈を考えるうえで、非常に価値のある資料。

クリスチャン新聞の過去記事には、こうした埋もれた歴史の鉱脈がある。

================================

三浦 ifc

NSPは岩手のグループ のぶりんは京都産業大学であのねのね 初期は鶴瓶と鶴瓶の奥さんもあのねのね(メジャー前)だったのでは??

1週間

返信する

三浦 真

🪐🪐🪐

1週間

返信する

渡辺 高士

復習ですが、

田中正造の人物像をAIに尋ねると、こうなります。

……

教会員としての明確な所属が確認されている人物というより キリスト教、特にプロテスタントの聖書的・倫理的思想に強く影響を受け、それを社会運動において体現した人物 …として理解するのが、現在の研究状況に近いとされます。

6日

返信する

萩野 秀子

大阪のふで叔母様かな?

1週間

返信する

渡辺 高士

どこに行こうと、一人ひとりの十字架は付いてくる。

田中正造はすでに十字架を負っている意識があり、加えて、その解釈を与えられた。

1週間

返信する

渡辺 高士

国語の教科書は自由度が高く、幅広い話題を載せられる。

1週間

返信する

山口耕司

こんばんは🌛🐎👍️

1週間

返信する

萩野 秀子

私の教会は、以前は口語訳聖書でしたが2019年より2017新改訳を使用しています

1週間

返信する

萩野 秀子

小学6年生の国語の教科書に田中正造さんの話がありました

1週間

返信する

萩野 秀子

本日は、一日中寒いです。

1週間

返信する uk election results

Filters
Sort
display